眠っていた富野資料
- 2006 01/26 (Thu)
カセットテープの山が目に入る。
MP3に取り込んで処分しようかとおもっているのだが、なかなかその気になれない。
そんなテープの山の中にガンダムのサントラIIIを発見。
以前なんさんから頂いたものだった。
このテープ、実はまだ聞いたことはないのだが、
劇場版のサウンドドラマが収録されているらしい。
![]() | 「MOBILE SUIT GUNDAM3」ドラマ編 やしきたかじん キングレコード 1991-03-05 by G-Tools |
改めて・・・というか頂いて以来初めて詳しく調べてみたところ、
中にライナーが入っているらしい。早速取り出してみると・・・
富野コメントハケーン!!
2年半もの間気づかずにおりました・・・orz
もしかしたらCD版のライナーにも記載されているかもしれないが、
内容的に現在の状況とも絡んでくるのでここに全文転載。
いろいろと考えさせられる。
ツギハギ映画考3 富野喜幸
一本の映画について言えば、画は等品質でなければならず、仕上がりの強弱は一切認められないというのが演出の立場である。
五人のアニメーターが原画を描いた場合にもその質が均一であることが建て前として要求される。そして、今回のガンダムのように一年以上の時間が経た後での製作であっても、一年前と同じ画を提供しなければならないのが、アニメーターの職能である。
しかし、こんなことはあり得るわけがない。いやしくも、物を創り描こうとする絵描きが、日々同じであって、十年一日がごとき画を描き、変わらぬとしたら絵描きは廃業すべきである。アーチストとはいえない。
そして、ガンダムは見事にそれを実証して終わった。ツギハギ映画の由故である。なまじ、一年余り経た後に新たな描きおこしを挿入したばかりに、ダイジェスト版以下の仕上りになったといえる。
これは謙遜でいうのではない。演出者の立場ではこう言わざるを得ないのである。
本来、いかなる型式の作品であれ、それが作品として提出されたときに、第一に満たさなければならない条件がある。
様式美。概念づけは一口では言えないが、フォルムとも言う。表現のスタイルといってもいい。映画の場合、この様式を支えるものは一ショット、一ショットの映像、そのディテールであって、もっとも末梢のことで、末梢な事ではあるが故にそのトーンが狂うことは許されないのだ。
その映像の累積によって映画が成立するのである。その表現の最前線のものは、極端に言えば、活字のタイプにも相当する。角ゴシック体やら丸ゴシックやら明朝体やらの活字が入りまじった文章をお読みになった方がいるだろうか?確かにこの比喩は作品のフォルムの例えとしては適切ではないのだが、映像の質が違うということは、演出者にすればこの活字の違いに相当する、その上にやっかいなことは、映像の一ショットは単なる活字である以上に、作品そのもののデティールを支える表現そのものであることなのだ。
それ故、末梢であるというより、表現の最前線という方が正しいのが映像である。
これは音にも言える。作者の異なる音楽を手に入れて、それらを同均質のレベルに創り、さらに映画として使ってゆく。
これは単に音楽をならべれば良いという性質のものとはやや異なるのである。単なる雰囲気の醸成というほどになま易しいものではないのだ。
映像の意味性を陰か陽かに分けるほどに表現としての主張を持つのが音楽たちである。
これは、一度でも映像と音楽を合わせる作業をやってみればお判りになるはずである。
まして、一度創ってみたが故に教範があり、そのイメージを揺るがすことなく、別の構成の作品でやってみるというのは負担である。
これもガンダムがツギハギ映画たる由故である。
これらの条件が目に見えた瞬間にこの仕事を放棄したい衝動に駆られたのは、僕が演出者だからである。
にも拘らずガンダムのシリーズ版の三分の一にあたる部分を二時間二十分にまとめ上げて良かったと実感する。
先に映像の均一性を言いはしたが、作品のフォルムの根本は何をどう描き語ったか、なのである。これが様式、フォルムについての言わく言い難いところなのである。
その筋目だけは一作者として通したという自負がある。無論、評価ではなく自負である。評価は諸君らがしてくれれば良いのであって、制作者の関与するところではない。
とはいえ、今回のガンダムが所詮は二部の予告編でしかないのも承知の上で自負させてもらうのである。
なぜ、筋目を通したと考えるのか?
これは、映画上映に先立つ二月二十二日の“アニメ新世紀宣言”というデッチ上げイベントとも関係するのである。
ガンダムがなぜ映画になり、なぜ新世紀宣言なのか?これらの表面的な行為は明らかにデッチ上げの客寄せと写ったろう。しかし、本当にそうだろうか?
考えて欲しい。いわゆるファンならば大体に於いてガンダムを知っているのだ。ストーリーの細部まで我々制作者以上に知っているファンはいくらでもいる。
少なくともファンは、映画を観る必要なぞないのである。又、二月二十二日の件だって、一度しか出なかった新聞広告をよく読んでみれば、イベントの実体がないことを知ることができる。ポスターを配布する。これは客寄せ、ファン寄せ以外のなにものでもない。
新世紀宣言という宣伝臭い言葉にファンならうさん臭いものを感じたろう。しかし、ファンが集った。
馬鹿なファンだから集ったのか?ファンはひたすら純心だから騙したのか?そういう一面も確かにあったろう。否定はしない。
しかし、それだけであれだけのティーンエイジャー(チビッ子ではない)が集まるだろうか?集まる気持ちになるだろうか?
アニメ・ファンであるならば知っているはずである。ガンダムにはすでに新しい情報などはかけらもないことを。にも拘らず次々と出される刊行物にファンは戸惑っていよう。
我々もそうだ。しかし、これでいいのだと僕は思っている。それは、ファンのためにいいのだ、ということでは決してない。
ガンダムが置かれている現在という時間に対して、現在という時代に対して、これで良いのだ、と信じているのだ。
だから、僕は新世紀大会を是認し、各種刊行物も認める。
ファンはその中から確かに自分が必要だと思われるものだけを手にすればよい。注意深く……。そして、なぜ、この現在にとってこれでも良いのかという理由は、本当は僕がここで記す必要はないのだ。
二月二十二日に参集してくれた一万人以上のファンはその意味を知るからこそ参集したのだから……。しかし、あえて記す。ファン以外の人に少しでも、ガンダムの名の下に参集した若者たち(もう一度いう。チビッ子ではない)が何を訴えたかったを伝えるために……。
ガンダムは決めごとのドラマではない。ガンダムとは、かつて空白に近かったミドル・ティーンたちへの問いかけのドラマである。
少なくとも、視聴者一人一人が思考してゆくためのスプリング・ボードになる作品である。
僕はそのつもりで創った。
それが上手にできているかいないかは、僕の言うところではない。が、少なくとも、こういった意志を持って創られたテレビ・アニメがあったろうか?しかも俗悪の代名詞となっているロボット物のパッケージを利用して……!このことは一体何を意味するのだろうか?
ガンダムの正当性を語ろうというのではない。
テレビ・アニメが始まって十九年。アニメのジャンルが単に漫画映画と既定されて終る時代は過ぎたのではないだろうか?ということの問いかけなのである。
作品の問いかけであると同時に、存在そのものの問いかけなのである。
これは、一ガンダムというフィルムが語るだけでは世間には伝わらないのである。
現在の擬似イベント時代、一本の映画の前売りが良かった悪かったぐらいでは、世間はその存在を認めようとしない。
アニメは漫画。漫画は幼児のもの。漫画は低俗。それですませている大人たちに、アニメを見、受ける人たちが違ったのだという事実を示すためにはフィルムだけでは不足だったのだ。
それが、新世紀大会。ファンが集り、デモンストレーションをする。それだけがあの大会の主旨であったのである。
だから、ファンは主催者(僕も含む)のダシに使われたのである。この部分についてはいくら怒ってくれても構わない。ひたすら謝るしかない。
しかし、あの集会の結果を間違いなく我々は(ファンも含めて、だ)手に入れたのだ。
まさか、と思われよう。
が、これも事実である。大手の新聞は地方版でしか扱ってくれなかったが、チビッ子という表現が消えつつある。一万人余が集ったという事実に対して、その事実を指摘こそすれ、チビッ子のアニメ狂という表現が消えつつある。皆無とはいわない。
これは、一体どういうことだろう。
アニメ関係雑誌がアニメの市民権が確立された、などと言って久しいが、それは所詮、内輪の“よいしょ”である。そんなものに浮かれてはならないのは、諸君らが一番知っていよう。
アニメ雑誌を買えば無駄使いと言われ、アニメを観ればそんな下らないものを、と、言われて何年になろう?現在という時であってもそんな体験を持つ方は何千人と居るはずだ。
その時に、いえ、アニメもこうなっているのよ。大人の方が本当に理解できて?と言ってみたいと思ったことはないだろうか?
僕はこの年になるまで、一度、そう言ってみたかった。僕以外の大人たちに……。
だから、ガンダムを創り、現実に参集したファンはチビッ子ではないのですよ、と他の大人たちに知らせたかったのだ。
そして、幾つかのマスコミ媒体がうかつにチビと書いたらまずいぞ、と思ってくれたらしいのだ。だとしたら、イベントとして主催者側の虚無性は認める!が、イベントそのものとしては、半歩の前進があったと信じたいのだ。
この疑義もあって然るべきである。
しかしながら、当事者として言わせて貰うならば、このかすかにでも芽生えつつある大人たちの認識を拡大するため、ツギハギ映画のガンダムが役に立つのならば、やるしかない、と思う。
そして、真のアニメの市民権を得たいと思うのだ。
アムロの科白にあったが、それこそ、今の僕の心境である。
“できるとはいえない……けど、やるしかないんだ……”
シン・ザ・シティの片隅みで……。
1981.3.5
まさに劇場版Zは活字体の入り混じった映画だったと思うのだが、
その点については今現在どのように考えてみるのか聞いてみたいところである。
それと今のガンダムが少なくともある一定の世代以降には、
社会的に認知されている状況に対しては、
「ガンダム」が社会に、もっといえば世間に受け入れられるようになったのか、
それとも社会のほうが変質し、いわゆる「オタク」化したのか、
どのように考えているのかも聞いてみたい。
それからCDのライナーに載っているかどうかの情報もきぼん。
載ってなかったら行きつけの古本屋にたしか他のテープもあったはずだからいっちょ探してくる。
- posted 22:20 |
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Comment
“できるとはいえない……けど、やるしかないんだ……” なんじゃないのでしょうかね、相変わらず。この頃は「アニメ村」の住民が増えていけば、市民権は得られると思っていたかもしれないですが、今は「アニメ村」じゃないところに訴えなければ駄目だと思っているんじゃないかとか、私は勝手に思っています。
そうですね。結局は「ヲタク」が増えても閉鎖的な状況を仲間内で楽しんでしまい、状況を打破するほどの力はなかったと見限られたのかもしれませんね。
だからこそのメディア露出なのかな?とも考えてみたりしてます。
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